「教職員会議 挙手・採決禁止は大人げない」・・か?

教育基本法改正問題の関連で三連続のエントリー.
東京都教育委員会が職員会議で挙手・採決を禁止する異例の通達を出したという記事について,ネット右翼的に少し考察してみたいと思う.
ご存じのように,東京都では国旗掲揚・国歌斉唱問題に絡んで,全国でも突出した違反者処分を行っている.すなわち,これは国旗掲揚君が代斉唱という至極当然な職務行為の一つを,思想の自由などといった場違いな屁理屈を盾に拒否したアカ教員が多かったと云うことだ.それと同時に,それを監督・指導する校長の統率力が弱いことも露呈されたとも云えるだろう.したがって,今回の通達は校長の権限強化・再確認という意味において,別段おかしな決定ではないと思う.4月15日付の朝日毎日の社説を読んでも,その批判ぶりから逆に都教委の意図が透けて見える.
読売の記事を見ると,今回の通達の動機について「今年1〜2月に都立高など計22校でヒアリングをしたところ、主任教諭の選任や学校行事の運営について、職員会議に諮ったうえ、多数決で決めていた学校が約7割に上った。」と,職員会議の実態を挙げている.これは推測ではあるが,実際には事勿れ校長がアカ教師達に突き上げをくらう,そんなイメージではないのか.それくらいでないと,こういった異例の通達を出すとは思えないからだ.
両社説では何故か,子供達に悪影響が出るだの可哀想だの宣っているが,むしろ現況の方が子供に混乱を生じさせているのではないだろうか.学校は学問を学ぶところであると同時に,子供達に規律・規範を教えるところでもある.異論はあろうが,筆者は教育にはある程度の強制力が必要だと考えている.個ではなく,公を重んじて物事を進めていくことの重要性を教えないと,公共の精神は育たなくなる.これは”個人の尊厳”とは別次元のものだ.ゆえに,これを指導する側の教員が規律や規範を守らないでは逆に子供に示しがつかなくなるのは自明だろう.



ここで,”木走日記”さんが上記のような観念論ではなく,現実論として教員側の被統治能力の低さを的確に評論しておられる.その中でも,IT化の委託を受けた担当の木走さんが管理される側の職員(多分,教員)に反論された場面が興味深かった(以下引用).

上記の例の学校のコンサルのときに印象的な議論がありました。
私が組織論としての意志決定手法の簡素化がいかに計画を推進するために有効なのか、その話をしているとある職員が私にこう反論してきました。

「教育は営利目的の民間企業とは本質的に違うんだよ。効率、効率とあなたは二言目にはいい、決定事項は全学一丸で達成すべく協力し合おうと軍隊的なことを言うが、学校は軍隊じゃないんだ」

いやはやなんともであります。
彼の目には経営側の決定事項に従うことは軍隊的上位下達にしか映っていないのでありましょう。


反論した職員が教員だとすると,非常に納得できる言説だろう.その言説には2つの理由があると考える.そこは私立学校であったそうだが,教員である以上,教育基本法に規定されているわけで,その6条第2項には教員の身分について以下のようにある.

第6条第2項
法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。


これを教員という人種は曲解しており,教育のためと判断したなら無制限の”独立性”があるものと勝手に思い込んでいる.”教員の独立性”はある程度,確保されなければならないのは当然であるが,条文にもあるように,「全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。」とあるのだから,被統治性の完遂を目指すことは義務である.
それともう一つの理由は,学校とは統治側の如何なる圧力にも屈してはならないという,ひん曲がった”学校の独立性”概念だろう.この概念は大学になると,もっと酷くなり”大学の自治”という閉鎖性に繋がる.もっとも,それが特に強い国立大学も法人化されてからは教授会の回数も減り,学長のトップダウン方式が嫌々ながら浸透してきているが・・・.
木走さんは,こうした被統治性に対して上手い説明をされておられる(以下引用).

一般に、統治能力(リーダーシップ)とか被統治能力(ガバナビリティ)とかの話になると、経営者側は、あたかも軍隊のような上位下達方式の徹底をイメージしてしまうようです。
しかしこれは大きな間違いです。
私から言わせれば、被統治能力(ガバナビリティ)とは、組織の指示系統に忠実に振る舞うことにより全体の共通の利益が実現しそれが個々の利益にも連動しているという共通意識の確立が大前提になければならないものであります。
私はコンサルのときによくヨットのクルー(乗組員)の話をします。

ヨットレースに参加するほどのレベルのヨットクルー達はキャプテン(船長)の指示を的確に把握して、それぞれの持ち分での役割で自分に与えられた役目を忠実に実現していきます。
全員がキャプテン(船長)の手足となり忠実にそのミッションをこなすことで初めて、ヨットは速度を上げ最善のコース取りをし優勝を目指すことができることを熟知しているからです。
クルーの中に一人でも指示に従わないものがいれば良い成績を収めることなどできないのです。
その意味で世界最高水準のヨットクルー達の被統治能力(ガバナビリティ)は最高なのでありましょう。
経営者達がここで見落としてはならないのは、彼等には共通の目的意識(この場合優勝ですか)があるからこそ、この高いガバナビリティが実現している点です。


仰るとおり,共通の目的意識のみで意識を結集させなければ組織は効率的に動かない.そこにはイデオロギーなどなんの関係もないのに,教員になると,左翼イデオロギーが強いためか,逆に反発するのだろう.本当は最も被統治能力が高いのは軍隊に決まっているのだが,彼らに説明するには引用のように説明するのが良いのかもしれない.良心的なすり替え論だと思う.

何れにしても,教員とは厄介で扱いにくい人種である.


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